朝の工房には、まだ夜の冷たさがわずかに残っていた。翔太は作業台に向かい、佐伯から預かった木材のサンプルを静かに手に取った。指先に触れるその質感は、これまで扱ったどの木とも違う。重みがありながら、どこか柔らかい芯のようなものが感じられる。
「この木が、どんな形を求めているんだろう……。」
そう呟きながら、翔太は木肌に耳を寄せた。木は語らない。しかし、その沈黙の中には確かな気配があった。まるで遠いところから呼びかけるような静かな声。その声に応えるためには、まず自分の中の雑音を静めなければならない。
佳奈が温かいコーヒーを手に工房へ入ってきた。「もう作業してるの?」
翔太は振り向き、少し照れくさそうに笑った。「作業というより……考えてるだけ。」
佳奈はカップを置き、木材を興味深そうに眺める。「この木、すごく綺麗だね。表面の揺らぎみたいなのが、生きてるって感じ。」
「うん。扱うのは難しそうだけど……すごく惹かれるんだ。」
佳奈は微笑んだ。「じゃあ、その惹かれる気持ちを大事にしてみたら? 形は後からついてくるよ。」
その一言に、翔太の胸の奥で何かがひとつほどけた。そうだ。形を追いかけるんじゃない。まず心の動きを追いかけなければならないのだ。
午後、翔太は大きなスケッチブックを開き、鉛筆を走らせた。最初は線がばらばらに散らばり、焦点が合わなかった。何度も描いては消し、描いてはまた迷う。
だが夕方近く、ふとした瞬間に一本の線が生まれた。風が吹き抜けるような、流れを持った線だった。その線を見た瞬間、翔太は胸が軽くなるのを感じた。
「これだ……。」
その線は背もたれを包み込むような形へとつながり、座面の輪郭を自然に導いた。人が座るというより、木がその人を受け止めるような、そんな姿だった。
佳奈がそっと背後に近づき、スケッチを覗き込む。「すごく優しい線……翔太くんらしい。」
翔太は照れながらも、その言葉を素直に受け止めた。「この椅子は、大切に作りたい。誰の依頼でもなく、自分のために。」
「展示会に出すの?」
「うん。もし展示できたら……きっと新しい出会いがある気がする。」
佳奈は翔太の横顔を見つめ、静かに頷いた。「絶対あるよ。翔太くんの椅子には、人を引き寄せる力があるから。」
その言葉が、翔太の胸に暖かく染み込んだ。支えてくれる存在がいるというだけで、こんなにも前を向けるのだと改めて思った。
夜、工房にはランプの柔らかな光だけが灯っていた。翔太はスケッチを見つめながら、深呼吸をした。
「よし……この線を信じよう。」
指先が震えるほどの緊張と、胸が高鳴るほどの期待。両方が入り混じったまま、翔太は最初の一本の木を切り出した。
切り落とされた瞬間、工房に漂う木の香りが新しい物語の幕開けを告げるようだった。
佳奈が作業台の隅から見守り、静かに言った。「ここからだね。」
「うん。ここから、始まる。」
二人の視線が交わると、工房の空気がふっと温かくなった。まるで木々のささやきが祝福しているように、夜の風が優しく吹き抜けていった。
(35話へつづく)
(文・七味)