納品を終えた翌朝、工房の空気はどこか違っていた。窓から射し込む光が、昨日までより少し明るく感じられた。翔太は作業台の上に置かれた工具を整えながら、ふと小さく息をついた。達成感と同時に、心の奥に静かな余白が広がっていた。
「終わっちゃったんだな…。」
独り言のようにつぶやいたとき、扉の向こうから軽やかな足音がした。佳奈だった。紙袋を片手に持ち、笑顔で立っている。
「おつかれさま、翔太くん。昨日の納品、本当におめでとう。」
「ありがとう。なんだか、まだ実感がないんだ。」
佳奈は紙袋からサンドイッチを取り出し、作業台の端に並べた。「頑張った人には朝ごはんをちゃんと食べてもらわないとね。」
二人は木の香りに包まれた工房の中で、ゆっくりと朝食を取った。パンの柔らかい匂いが、オーク材の甘い香りと混ざり合う。小さな時間だったが、その穏やかさが何よりのご褒美のように思えた。
食後、翔太はコーヒーを飲みながら口を開いた。「あの夫婦、すごく喜んでくれてた。『暮らしの真ん中に置く』って言ってたんだ。」
「うん、聞いてて胸があったかくなった。」佳奈は微笑んだ。「翔太くんの椅子は、ちゃんと人の心に届いてる。そういう作品を作れる人になったんだよ。」
翔太は照れくさそうに笑った。「まだまだだよ。今度は、もっと自由に作ってみたい。依頼じゃなくて、自分の中から生まれる椅子を。」
佳奈の目が少し輝いた。「いいね、それ。翔太くんらしい一脚。きっと見てみたい人、たくさんいるよ。」
昼過ぎ、工房の前に見慣れない車が止まった。降りてきたのは、以前展示会で出会ったデザイン誌の編集者だった。彼は翔太の椅子を覚えていて、今回の納品の噂を耳にしたという。
「あなたの作品を取材させてほしいんです。小さな特集だけど、『若手木工職人の今』という企画で。」
翔太は驚いた顔で佳奈を見た。佳奈は静かにうなずいた。「受けよう。きっと、いい風になる。」
編集者は撮影の日程を決め、名刺を置いて帰っていった。工房には再び静けさが戻る。しかし、その静けさの中に、確かに新しい風が吹いていた。
夕方、翔太は工房の外に出た。赤く染まる空の下で、木の香りと秋の風が混ざり合う。遠くで佳奈が工房の戸を閉めながら言った。
「翔太くん、これからが本当の始まりだね。」
翔太は頷き、穏やかな笑みを浮かべた。「そうだな。ようやく、自分の足で立てた気がする。」
風が二人の間を抜け、工房の中へと流れ込んでいった。その風は、新しい季節の予感と、これから二人が歩む未来の匂いを運んでいた。
(32話へつづく)
(文・七味)