工房の片隅で、翔太は一通の封筒を手にしていた。差出人は、以前小さな展示会で出会った夫婦からだった。そこには短い依頼文が添えられていた。
「私たちの家に合う椅子を一脚、お願いできませんか。」
その文字を目で追った瞬間、胸の奥が熱くなった。展示会で何気なく交わした会話が、こうしてつながり、新たな仕事となって戻ってきたのだ。
翔太はすぐに佳奈に知らせた。工房を訪れた佳奈は、手紙を読み終えると笑顔を見せた。
「やったじゃない、翔太くん。いよいよ本当のお客さんのための一脚だね。」
「うん…正直、ちょっと緊張する。」
「緊張してるってことは、それだけ大事にしたいってことだよ。」
その言葉に背中を押され、翔太は打ち合わせの準備を始めた。スケッチブックを開き、依頼主の好みや生活の風景を想像しながら、いくつものデザインを描き重ねていった。
佳奈は翔太の横に腰かけ、何枚ものスケッチを一緒に見ていた。ときおりペンを取り上げて「こういう曲線もいいんじゃない?」とさらりと書き足す。その仕草は自然で、翔太にとっては不思議と心地よかった。
「ねえ、翔太くんの工房、これからどんな風になるんだろうね。」
「…正直、まだ全然見えてない。でも、こうして一つずつ形にしていけたらいいな。」
「きっと、いい場所になるよ。」
佳奈のその言葉は軽やかだったが、なぜか翔太の胸に深く残った。彼女が工房を特別な場所として見てくれていることが、素直に嬉しかった。
数日後、翔太は初めてのお客との正式な打ち合わせに臨んだ。場所は夫婦の自宅。古い木造の家に入ると、温かな光が差し込むリビングに案内された。そこには長年使い込まれた家具たちが整然と並び、住む人の時間がにじみ出ていた。
「ここに置く椅子をお願いしたいんです。」
夫婦が示したのは、窓際の一角だった。外の庭を見渡せるその場所に、二人は並んで座れる椅子を望んでいた。
翔太はメモを取りながら、材質や座面の高さ、背もたれの形まで細かく質問を重ねた。依頼主の声を聞くほどに、椅子の輪郭が少しずつ心に浮かんでくる。
帰り際、夫婦はこう言った。
「私たちの毎日を、少しだけ豊かにしてくれるような椅子をお願いします。」
その言葉が翔太の胸に響いた。彼がこれまで学んできた技術や思いが、ついに誰かの暮らしに直接結びつく瞬間が来たのだ。
工房に戻った翔太は、佳奈に報告した。
「すごくあたたかい人たちだった。二人が座る姿を想像したら、椅子の形が見えてきた気がする。」
佳奈は微笑み、真剣なまなざしで翔太を見た。
「じゃあ、その姿が見えるまで作り続けるんだね。…私も楽しみだな、翔太くんの工房が、これからどんな場所になっていくのか。」
その言葉に翔太は少し照れくささを覚えたが、同時に胸の奥に温かな力が宿った。佳奈と未来を共有することが、いつの間にか当たり前のように思えていた。
工房に広げた図面には、まだ未完成の線が無数に走っていた。だが、その線の奥には確かな未来の一脚と、佳奈と歩むこれからの時間が静かに眠っていた。
(28話へつづく)
(文・七味)