工房に日の光が温かく漂う朝、翔太はいつものように椅子の材料となる木材を手にとっていた。ここのところ、自分の理想に近づくための試行錯誤が続き、手に汗握る緊張の日々が繰り返されていた。そんな緊張の湿り気が木材にうっすらとついている。
そんな時、工房の電話が鳴った。電話に出たのは佳奈。佳奈の表情が物語っていた。
そして佳奈が、顔を乗り出して翔太に叫んだ。
「翔太くん、お客さんからだよ。指名で。」
「指名で?」
佳奈の方が興奮している。翔太はこれから待ち受ける、本当の意味での一歩目をすぐに知ることになる。
何のことかと思いながら電話を受けると、親しげなイントネーションのなまり声が聞こえた。ゆっくりと、丁寧な口調である。
「この前、展示会で翔太さんの作品を見たんです。翔太さんが作るものが、なんだか家のインテリアに合う気がして…ずっと椅子を探していたんです。翔太さんの作品を見てピンッときたんです。我が家のインテリアに合いそうな椅子を作ってもらえませんか?」
そこから何を話したか、翔太はあまり覚えてない。
初めての指名だということを改めて自覚し、指名がこんなにも嬉しいものだと初めて知った。
受話器のから聞こえたその声を翔太はずっと忘れないだろう。
翔太は、少しぎこちないままではあったが、溌剌と返答をした。
「もちろんです。ありがとうございます!」
これが、初めての受注だった。
そして週末、翔太は初めてのお客との打ち合わせに向かった。指定されたのは、郊外の住宅街にある、明るい庭が見えるリビングだった。
対応してくれたのは、穏やかな表情をした年配の女性だった。彼女は翔太を迎えると、リビングの一角に案内し、こう言った。
「ここに置く椅子をお願いしたいの。日が差し込むこの窓辺で、朝にお茶を飲むのが私の楽しみでね。」
翔太は頷きながら、手帳を開いた。
「この窓辺の高さや明るさ、あと、ご希望の座り心地など、具体的にお聞かせいただけますか?」
女性はにっこりと笑い、こう答えた。
「柔らかすぎないけれど、体が包まれるような感覚が好き。あと、木の香りがする椅子がいいわ。」
翔太はうなずきながら、現場の空気を感じ、視線を木の床や壁へと移す。
「樹種はナラかチェリーあたりが合いそうです。香りの持続と木目のやわらかさ、両方あるので。」
打ち合わせは静かに、けれど温かく進んだ。
女性は最後にこう言った。
「翔太さんの椅子、展示会で座ったとき、とても気持ちがよかったの。だからお願いしたのよ。楽しみにしてるわね。」
その言葉を胸に、翔太はゆっくりと工房への帰路についた。
彼の頭の中には、もうすでに次の設計図の一部が描かれ始めていた。
数週間後、椅子は完成した。
目の前に立つ椅子は、潤らかで、やさしくて、どこか成長した自分の心をすら写しているように見えた。
翔太は、そっとその椅子に座った。
「誰かのためのものを、成功させる。これは、すごく大きなことだ。」
初めての受注。初めてのオーダー作品。
その足元には、小さくも確かな自信が残っていた。
これは、翔太にとって、未来に繋がる、本当の意味での「一歩目」だった。
(23話へつづく)
(文・七味)