翔太が村上の工房に入ってから半年以上が経過していた。木材の選び方や道具の使い方を少しずつ学び、椅子の試作品を何度か完成させることで、彼は自分なりの成長を感じ始めていた。しかし、その成長が明確になるにつれ、彼の前に大きな壁が立ちはだかるようになった。それは「デザイン」という、技術だけでは乗り越えられない抽象的な課題だった。
「お前は、どんな椅子を作りたいんだ?」
ある日、村上がふいにそう尋ねた。翔太は一瞬言葉に詰まった。これまで彼は、椅子を「作る」ことに必死で、それがどんなデザインであるべきかについて深く考えたことがなかった。とにかく形にすることに集中していた翔太は、村上の問いが何を意味しているのかすぐには理解できなかった。
「まあ、今はそれでもいい。ただな、デザインってのは形だけじゃない。そこに魂を込めることだ。」
村上の言葉はどこか含蓄があったが、翔太にはその「魂を込める」という意味が漠然としていて、掴みどころがなかった。
その夜、翔太はスケッチブックを広げ、自分が作りたい椅子のデザインを考えようとした。ペンを握りしめ、何度も紙の上を行き来するが、思い描いたものが形になることはなかった。頭の中では理想的なイメージがぼんやり浮かんでいるのに、それを具体的な形に落とし込むことができない。椅子の背もたれはどうするべきか、座面の広さは?脚の太さや配置のバランスは?考えれば考えるほど迷いが深まり、気がつけばスケッチブックには無数の消しゴムの跡と、未完成の線が残されていた。
「こんなんじゃダメだ……」
翔太は机に突っ伏してため息をついた。デザインの壁は、彼にとってこれまでの技術的な壁とはまるで違う性質のものであり、それが彼を深い焦燥感に追いやっていた。
そんな翔太の様子を見かねた佳奈が、ある日声をかけてきた。「何か困ってるみたいだね?」翔太は最初、「別に」とそっけなく答えたが、佳奈の真剣な視線に押されて、正直に自分の悩みを打ち明けた。デザインを考えるたびに手が止まってしまうこと、そして自分には何の個性もないように思えること。
佳奈は少し考え込み、やがて自分のスケッチブックを取り出して見せてくれた。そこには彼女が描いた椅子のデザインがびっしりと並んでいた。どれもシンプルで美しい曲線を持ち、どこか都会的な洗練を感じさせるものばかりだった。翔太は思わず見入ってしまい、同時に自分との違いに圧倒された。
「私は、自分が座りたい椅子をイメージするようにしてる。どんな座り心地がいいか、どういう場所に置きたいか……そうやって考えると、自然と形が浮かんでくるんだ。」
佳奈の言葉はシンプルだったが、その背後には彼女が家具作りに対してどれだけ深く考えているかが垣間見えた。翔太は、自分がいかに表面的にしか椅子を捉えていなかったかを痛感した。
その晩、翔太は再びスケッチブックを開き、自分が「座りたい椅子」を考え始めた。木材の質感、座面の柔らかさ、背もたれに寄りかかったときの安心感……具体的なイメージを一つひとつ積み上げていく。次第に頭の中で形が少しずつまとまり始め、それを線として紙に落とし込むことができるようになってきた。
翌朝、翔太は村上にそのスケッチを見せた。村上は無言でページをめくり、しばらくしてから一言、「悪くない」とだけ言った。それは翔太にとって、どんな評価よりも大きな意味を持つ言葉だった。村上が初めて、翔太のデザインに対して何も否定しなかったのだ。
「けどな、デザインはまだ始まりにすぎない。形を決めるだけじゃ終わらない。それをどう実現するかが職人の腕の見せ所だ。」
村上の言葉に、翔太は大きくうなずいた。デザインを考えることは、職人としての挑戦の入り口に立ったに過ぎない。そのデザインをどう木材に落とし込み、形にしていくのか。それがこれからの課題だ。
翔太はデザインの壁を越えるきっかけをつかんだものの、まだその壁を完全に乗り越えたわけではない。しかし、彼の胸には小さな光が灯っていた。それは、自分だけの椅子を作りたいという強い意志だった。翔太はその思いを胸に、再び木材と向き合い始めた。今度こそ、自分の椅子を完成させるために。
(10話へつづく)
(文・七味)