家具作りを学び始めてから数か月、翔太は毎日木材と向き合いながら、少しずつ技術を磨いていた。しかし、思うように木を削れないことも多く、削りすぎたり、木目を無視して失敗したりすることが続いていた。ある日、村上がふと漏らした言葉が、そんな翔太の悩みの核心を突いた。
「道具を使いこなせなければ、木と話すことなんてできないぞ。」
その一言に、翔太は思わず手を止めた。これまで自分は、木材そのものにばかり意識を向けていたが、道具について深く考えたことはほとんどなかった。ただ鉋やノミを手にして、それを使うのが当たり前だと思っていた。しかし、村上の言葉は、道具が木工の世界でどれほど重要な存在かを翔太に考えさせるきっかけとなった。
その日の午後、村上は工房の一角に翔太と佳奈を呼び寄せ、道具の棚を指差した。「今日は道具の話をする。お前たちが作業で使っているものは、ただの工具じゃない。それぞれが職人の相棒だ。」そう言うと、村上は鉋を一本取り出し、慎重に刃をなでるように触れた。
「例えばこの鉋。これで木を削るとき、刃が鈍っていれば、どれだけ力を入れてもいい仕上がりにはならない。逆に、刃が鋭ければ、軽く滑らせるだけで木が形を変えてくれる。」村上はそう言いながら、鉋を磨くための砥石を取り出し、刃を研ぎ始めた。その動きは丁寧で、まるで鉋そのものと会話しているようだった。
「道具の手入れを怠れば、どれだけ技術があっても無意味だ。」
村上の言葉に、翔太ははっとした。確かにこれまで、道具をただの道具としてしか見ていなかった自分が恥ずかしくなった。
その日から、翔太は道具の手入れを見直すようになった。まず村上に教わったのは、砥石を使った鉋の刃の研ぎ方だった。初めての研ぎ作業は思った以上に難しく、研ぎ角度を一定に保つことができず、刃がなかなか鋭くならない。村上は「焦るな」と言いながら、手本を見せてくれた。滑らかな動きで砥石を行き来させる村上の手からは、何十年もの経験がにじみ出ていた。
「刃が鋭くなる瞬間を感じ取れ。それが分かるようになるまで繰り返すんだ。」
翔太はその言葉を胸に刻み、何度も研ぎ直しを繰り返した。失敗するたびに村上にアドバイスを求め、次第に刃の感触をつかめるようになっていった。そして初めて、自分で研いだ鉋で木材を削ったとき、木目に沿ってスッと滑らかに削れる感覚を味わった。それは、これまでにない達成感だった。
また、ノミの使い方についても村上は厳しく教えてくれた。ノミは単に木を削るだけではなく、細かな形を作るための繊細な道具だ。「力を入れすぎると木を壊す。ノミは削りたいところだけを正確に切り取るための道具だ。」そう教えられた翔太は、試しに木の端を削ってみたが、思った以上に力加減が難しかった。ノミの刃が深く入りすぎたり、逆に木の表面を滑るだけで全然削れなかったりする。
村上は翔太の作業をじっと見て、「ノミは腕の延長だと思え」と助言をくれた。自分の手の動きと刃の動きが一体となるように、無駄な力を抜いて正確に動かすことが大事だという。そのアドバイスを受けて、翔太は何度も練習を重ねた。ノミを持つ手に集中し、刃が木に食い込む感触を丁寧に感じ取るようにした結果、少しずつだが、思い通りの形を削れるようになっていった。
道具への理解が深まると、翔太の作業全体に変化が現れ始めた。これまで力任せに削っていた木材が、道具を通して滑らかに形を変えるようになり、失敗も減ってきた。それだけではない。道具の手入れをする時間が、翔太にとって特別な儀式のように感じられるようになった。作業前に鉋やノミを磨き上げ、砥石で刃を研ぎ、道具を準備することで、自然と心が落ち着き、集中力が高まるのだ。
佳奈もまた、道具の手入れに熱心だった。翔太と佳奈は互いに作業の合間に研ぎ方や使い方のコツを教え合い、時にはどちらがより鋭い刃を作れるか競い合うこともあった。そんなやり取りが、二人の関係をさらに深めていった。
ある日、翔太が研ぎ上げた鉋を村上に見せると、村上は一瞬手に取って刃をなでるように触れ、「悪くない」と短く評価した。それは、翔太にとって何よりの褒め言葉だった。
道具は、木材と向き合うための唯一の媒介だ。そして、それを使いこなすことで初めて、木材に自分の意志を伝えられる。翔太はその事実を実感しながら、職人としての自信を少しずつ深めていった。道具を手にしたときの感触が、木工への道をまた一歩広げてくれる。それを知った翔太は、次の挑戦に向けてまた歩みを進めていった。
(9話へつづく)
(文・七味)