村上の工房での生活にも慣れ始めた頃、翔太は初めて「少し進歩したかもしれない」と感じる瞬間を迎えた。それは、村上から課題として与えられた試作品の椅子第3号が完成したときだった。試行錯誤の末に形作られたその椅子は、不恰好で荒削りではあったものの、座った瞬間に微かに「これなら悪くない」と思える手応えがあった。
試作品第1号、第2号がひどい失敗に終わったことは、翔太の記憶にまだ鮮明に残っている。第1号では背もたれが傾き、座るとバランスを崩してしまう状態だった。第2号は力の入れ方を間違えて木材を削りすぎ、全体が不安定で、座面もわずかに歪んでいた。どちらも村上から「使い物にならない」とバッサリ言われたことが、翔太のプライドを大いに傷つけた。
しかし、そんな失敗の積み重ねが、今回の小さな成功につながっていた。第3号を作るにあたり、翔太はこれまでの失敗の原因を徹底的に分析した。木材の選び方、部品の寸法の取り方、接合部の精度……それら一つひとつに注意を払いながら作業を進めた。そして最も意識したのは、木目を読むことだった。村上から何度も指摘された「木の声を聞く」ことを、ようやく体感的に理解し始めていたのだ。
例えば、椅子の脚を作るときには、木目の流れに合わせて鉋を滑らせた。村上からは「木目を無視すると、強度が落ちるぞ」と何度も注意されていた。翔太は、木目の方向を読み違えないよう、何度も確認しながら刃を進めた。結果として、脚の形状はこれまでよりも格段に安定感のある仕上がりになった。
完成した第3号を村上に見せたとき、彼は椅子の周りをじっくりと歩きながら、いくつかの部分を手で触れ、最後に座ってみた。翔太は息を飲みながらその様子を見つめていたが、村上は少しだけうなずき、「まあ、前よりは座れるな」と言った。それは決して大げさな褒め言葉ではなかったが、翔太にとっては初めての「合格点」のように感じられた。
「けど、まだまだだぞ。」
村上はそう言うと、椅子の背もたれ部分を指差した。「ここ、削りが荒い。触ったら違和感が残る。座る人のことを考えるなら、もっと細かい仕上げを意識しろ。」さらに、脚の接合部にも目を向け、「ここの精度も甘いな。長く使えばたぶんガタがくる。強度を保つ工夫が必要だ。」と指摘した。
翔太は真剣にその指摘を受け止めながら、同時に少しの自信を得ていた。「これなら前よりも良くなっている」という実感が、次の挑戦への意欲を掻き立てた。何よりも、完成した椅子に座ったときの微かな手応えが、自分の努力が無駄ではなかったことを教えてくれていた。
その夜、工房の一角で翔太は一人、第3号をじっと見つめていた。不格好な部分や粗さも多いが、自分の手で作り上げたという事実が彼の胸にじんわりとした満足感を与えていた。そして、椅子の表面をなぞりながら、次はもっと良いものを作るためにどうすればいいかを考えていた。
一方で、佳奈も自分の課題に取り組んでいた。彼女の試作品は翔太よりも完成度が高く、村上からの評価も上々だった。しかし、佳奈は自分の作品と翔太の第3号を並べて見比べると、「翔太の椅子には何かがある」と感じた。技術ではなく、どこか温かみや素朴さがあるその椅子は、佳奈にとって少し意外な存在だった。
「次は負けないからね。」
佳奈が冗談交じりにそう言うと、翔太は苦笑いを浮かべながら「まだ負けたとは思ってないよ」と答えた。二人は互いの作品を認めつつも、ライバルとしての刺激を受けていた。
小さな進歩。それは、目に見える大きな成果ではないが、翔太にとって確かな自信と次への道しるべだった。この第3号を踏み台にして、彼はさらに高みを目指す決意を新たにした。まだ道のりは長い。それでも、この一歩が未来の名作椅子へとつながっていると信じて、翔太は次の木材に手を伸ばした。
(8話へつづく)
(文・七味)