失敗を重ねる中で、翔太は「木の声を聞く」という村上の言葉の意味を少しずつ理解し始めていた。木目を読むこと、木材の硬さや柔らかさを感じること。これらは単なる技術ではなく、木と対話するような感覚だ。それでも、翔太の心の中にはもう一つの大きな課題があった。それは、理想の椅子のデザインをどう形にするかということだ。
村上の作る椅子には、独特の温かみがあった。無駄を削ぎ落としながらもどこか優雅で、座った人を包み込むような存在感を持っている。それはまさに「名作」と呼ぶにふさわしいものだった。翔太はそんな椅子を目指したいと思う一方で、「自分だけの椅子」とは何かを見つけられずにいた。村上の真似をするだけではダメだ。それではコピーにしかならない。翔太は、職人としてのスタートラインにすら立っていない自分に焦りを感じ始めていた。
ある日、村上が何気なく話した一言が、翔太の中に大きな種を蒔いた。
「椅子ってのは、座るだけのものじゃない。時にはその空間の一部になり、時には人を引き立てる。けど、何より大事なのは、その椅子がその人のためにそこにあると思わせることだ。」
その言葉に、翔太ははっとした。椅子とは単なる「道具」ではなく、人の生活や空間に溶け込む「存在」なのだ。その一言が翔太の中に新しい視点をもたらした。自分はただ形の美しさや木材の扱い方を追求していただけで、椅子そのものが持つ意味や役割を深く考えたことがなかったのだ。
その日から翔太は、村上の言葉を胸に、自分の理想のデザインを探し始めた。まずは村上の椅子をじっくり観察し、その曲線や寸法をスケッチに起こしてみた。座面の高さ、背もたれの角度、脚の太さ——それぞれが絶妙なバランスで成り立っていることに気づき、改めてその完成度に驚かされた。しかし、どれだけ模倣しても、そこには「翔太らしさ」が欠けている。スケッチを重ねるほどに、彼は自分の無個性さに悩むようになった。
そんなある日、村上の工房に一人の常連客がやってきた。年配の女性で、彼女は新しい椅子のオーダーをしに来たのだ。椅子を見ながら語るその姿はどこか懐かしそうで、「この椅子には私の若い頃の思い出が詰まっている」と語った。彼女の言葉が、翔太の心を強く打った。椅子がただの家具ではなく、使う人の人生や記憶とともに生きるものだということに気づいたのだ。
その夜、翔太は工房の隅でスケッチブックを広げ、何時間も頭を抱えながら鉛筆を走らせた。「自分だけの椅子とは何だろう?」という問いに答えを出すことは簡単ではなかったが、一つの方向性を見出すことはできた。それは、「使う人が心からくつろげる椅子」を作ることだった。ただ座るためではなく、その人の生活に寄り添い、安心感を与える椅子。そのために、自分がどんな木材を選び、どんな形を目指すのかを深く考える必要があった。
翌日、翔太は村上にその考えを話した。村上は静かに聞いていたが、最後に一言だけこう言った。「じゃあ、お前の椅子を作ってみろ。それがどんな形になるか見せてくれ。」その言葉に翔太は心を引き締め、自分の第一歩を本格的に踏み出す覚悟を決めた。
試行錯誤の日々が始まった。最初のデザインでは背もたれの角度がうまく決まらず、座ると窮屈に感じる失敗作となった。次のデザインでは、座面を広くしすぎて全体のバランスが崩れた。それでも翔太はあきらめず、村上や常連客たちの意見を聞きながら修正を繰り返した。
ある日、村上がふとつぶやいた。「デザインってのは難しいな。削りすぎれば味がなくなるし、足りないと形にならない。」その言葉は翔太にとって、また一つのヒントとなった。「余分を削ぎ落とすだけでなく、椅子そのものの意味を残すこと」——それが理想のデザインに近づく鍵なのかもしれない。
こうして翔太は、木材と向き合い、自分自身とも向き合いながら、少しずつ「自分だけの椅子」の形を見つけようとしていた。その道のりは長く険しいものだったが、翔太の胸には、確かに何かが芽生え始めていた。理想の椅子のデザインがまだはっきりと見えなくても、その曖昧さの中にこそ、夢を追い続ける価値があると感じ始めていたのだ。
(5話へつづく)
(文・七味)