村上の工房に通い始めて数か月、翔太は掃除や道具の手入れを通じて、職人の仕事の基本を学び続けていた。だが、それだけでは飽き足らず、早く自分も何かを作りたいという気持ちが日に日に膨らんでいた。工房に入るたびに目にする村上の作業台。その上で生み出される椅子やテーブルはどれも美しく、木が持つ温かみと村上の技術が融合した「作品」だった。それに比べて、自分はまだ何ひとつ形を作り出していない。その事実が、翔太の胸の奥をじわじわと焦らせていた。
そんなある日、村上が作業を終えた後、翔太の前に一枚の木材を置いた。「やってみるか?」村上の低い声が、翔太の心に響いた。突然の挑戦に、翔太は驚きと興奮で一瞬言葉を失ったが、すぐに大きくうなずいた。ついに、自分も木を削る機会を与えられる。それは、翔太がずっと待ち望んでいた瞬間だった。
渡された木材は広葉樹の一種で、適度な硬さがあり、加工の難易度はそれなりに高い。翔太は慎重に鉋(かんな)を手に取り、村上の作業を思い出しながら、木目に沿って刃を滑らせた。だが、初めて手にする鉋の感触は想像以上に難しく、力の加減がわからずに刃が木に深く食い込んでしまう。焦って力を弱めると、今度は刃が木の表面を滑り、うまく削れない。思った通りに木材が形を変えないもどかしさが、翔太の額に汗を浮かばせた。
「違う違う、もっと力を均一にしろ。」
隣で様子を見ていた村上が短く指摘する。そのアドバイスに従おうとするが、翔太の手はぎこちなく、思うように動かない。村上が何気なくやっているように見えた動作が、こんなにも難しいとは思いもしなかった。集中するほど肩に力が入り、木材には無駄な傷が増えていった。
何度も削り直しているうちに、翔太の木材は見るも無残な形になっていった。木目は荒れ、表面はガタガタに削られ、均一さのかけらもない。気がつくと、村上は手を止め、少し離れた場所で腕を組んで様子を見守っていた。その沈黙が、翔太には重くのしかかった。
「これじゃ、ダメですよね……」
翔太は思わずつぶやいた。自分の手の中にある木材を見つめ、悔しさで唇を噛む。せっかく渡されたチャンスを、自分は台無しにしてしまった。こんな仕上がりでは、到底村上が作るような美しい椅子にはつながらない。自分の未熟さをこれでもかと突きつけられた気がして、胸の奥に冷たいものが広がった。
村上は無言のまま翔太に近づき、削りかけの木材を手に取った。そして、その表面を指でそっとなぞりながら、静かに言った。
「お前、木の声を聞いてないな。」
その一言が、翔太の心を突き刺した。「木の声?」翔太は思わず顔を上げるが、村上は表情を変えずに続けた。
「木は生き物だ。ただ力で削ろうとしても、思うようには形を変えない。木目を読んで、木の持つ流れに合わせて削る。それができて初めて、木が答えてくれるんだよ。」
村上はそう言うと、翔太の鉋を手に取り、同じ木材を軽く削り始めた。その動きは驚くほど滑らかで、無駄がなく、刃が木の表面をなめらかに滑っていくたびに、木目が生き返るように美しく整えられていく。あっという間に、村上の手によって木材は滑らかな形を取り戻した。
翔太はその光景を呆然と見つめた。自分がどれほど技術不足だったかを痛感すると同時に、村上の言葉が胸に響いていた。木はただの材料ではない。木の声を聞く、木目を読む——それが職人にとって最も重要なことなのだと。
その夜、翔太は初めての失敗を振り返りながら、工房の一角で静かに掃除をしていた。木くずを拾いながら、自分が削った木材の欠片を手に取る。そこには、まだまだ未熟な自分が刻み込まれていた。それでも、翔太はその欠片をポケットにしまい込んだ。それは失敗の証であり、次に進むための誓いでもあった。
「木の声を聞ける職人になる。」
そう自分に言い聞かせた翔太は、翌朝早くから工房に向かい、新しい木材を前にして再び鉋を手に取るのだった。
(4話へつづく)
(文・七味)