工房の扉を初めて開いたときのことを、翔太は今でも鮮明に覚えている。木の香りが濃厚に漂い、温かみのある光が床の削りくずや磨き上げられた道具たちに柔らかく差し込んでいた。その場に一歩足を踏み入れただけで、全身がピンと引き締まるような不思議な感覚を覚えた。小さな木片ひとつひとつから、職人たちの息づかいが聞こえるようで、目に映るもの全てが特別に見えた。
翔太が工房を訪れたのは、高校の帰り道、何気なく歩いている途中で目に留まった「村上木工所」という看板を見かけたのがきっかけだった。外から覗くと、木材の棚が壁一面に並び、細かく分けられた道具や、半完成の家具が並んでいるのが見えた。その中で一人、作業台に向かい黙々と木を削る男性がいた。髪に木の粉をかぶりながらも、真剣そのもので木に向き合う姿が、彼にとってはとても美しく、力強く見えた。
ぼんやりと眺めていた翔太に気づき、男性がふと顔を上げた。その瞬間、翔太は思わず緊張して体をこわばらせた。強い眼差しが鋭く翔太を見つめている。だが、彼はすぐに口元をほころばせ、優しい声で続けた。
「入って見ていいぞ。どうせ、こんな場所に興味を持つなんて珍しいんだから。」
翔太は恐る恐るうなずきながら、工房の中に一歩足を踏み入れた。作業台や道具がきれいに並べられた室内に、彼は自然と息をのんだ。工具や木材は、ただの道具や素材ではなく、まるで生きているかのような存在感を放っていた。そして、村上健一——この工房を営む職人は、そのすべてを操る熟練の手で、目の前の木材を少しずつ削り出していく。彼の動きには無駄がなく、まるで木と語り合っているようだった。
「何を作ってるんですか?」
翔太は思わず声をかけた。村上は手を止め、微笑むような表情で答えた。「椅子だよ。座るための道具だが、作り方次第で椅子は何百通りにもなる。そこが面白いんだ。」その言葉に、翔太の心は強く惹かれた。椅子を「道具」として捉えつつも、そこに込める思いがある。それが村上の真剣さとなって現れているのだと感じた。
その日から翔太は放課後や週末になると、村上の工房を訪れるようになった。村上は何も言わず、時折「見て学べ」とばかりに黙って作業を続ける。その姿に翔太はただひたすら見入った。木材がただの無機質なものから、美しい形に変わっていくその過程が、翔太には魔法のように思えた。
ある日、村上はふいに一枚の木片を翔太に手渡した。「削ってみろ」とだけ言って、その場を離れていった。翔太は少し戸惑いながらも、手にした木片に刃をあてがい、力を入れすぎないように慎重に削っていった。しかし、すぐに木の表面はガタガタに削れてしまい、木目も乱れ、形が整わない。翔太は顔をしかめたが、村上はそんな様子を見ていても何も言わなかった。
「木はな、ただ削ればいいってもんじゃない。」
しばらくして戻ってきた村上は、翔太の手から木片を受け取り、手際よく削り始めた。村上の手つきは非常に柔らかく、それでいて芯のある動きだった。木片はするすると滑らかに削れ、あっという間に美しい形が現れる。「木が何を求めているか、耳を澄ませることが大事だ。道具も木材も、お前がよく見ていれば教えてくれるさ。」村上のその言葉が、翔太の心に深く染み入った。
それから翔太は、村上に言われるまま、ひたすら工房の掃除を続ける日々が始まった。床に落ちた木くずや道具を拭き、村上が作業をしているすぐ横で、彼の手さばきをじっと観察した。掃除だけでなく、道具の手入れも重要な仕事だった。村上の道具はどれも丁寧に磨かれており、使いやすいように工夫が施されている。その気遣いが、一つの作品を生み出すのに欠かせないことだと翔太は次第に理解していった。
村上の工房に通い続けるうちに、翔太の心には強い決意が生まれ始めていた。この工房で自分も家具を作り、村上のように木と向き合い続ける職人になりたい。そして、いつか村上のように自分の手で名作と呼ばれる椅子を作り出したい——その願いが、彼の胸の中で静かに燃え上がり始めた。
(3話へつづく)
(文・七味)