新しい椅子のスケッチが生まれてから数日。翔太の工房には、朝から張り詰めたような、それでいて静かに燃えるような空気が満ちていた。机の上に置かれたスケッチは、何度も見返され、指先でそっとなぞられ、少しずつ具体的な形へと近づいている。
その日、翔太は選び抜いた木材を前に深く息を吸い込んだ。佐伯から受け取った木は、光の当たり方で表情を変える不思議な魅力を持っていた。細かい導管のうねりが、まるで水面に映る風のように揺れている。
「この木で、本当に作るんだな……。」
呟いた声は小さく、しかし確信に満ちていた。
佳奈がそっと近づき、その木を撫でる。「すごい手触りだね。こんな木、初めて見た気がする。」
翔太は頷いた。「扱いが難しいらしい。でも、それも含めて挑戦したい。」
佳奈はそんな翔太をじっと見つめた。「じゃあ、全力で応援する。何か必要なことがあったら言ってね。」
その言葉に背中を押されるように、翔太はノミを構えた。最初の刃を入れる瞬間は、いつも特別だ。息を止め、木目を読み、刃を入れる角度を慎重に決める。木は時に気まぐれで、少しでも読み違えれば思わぬ方向へ割れてしまう。
だが、最初の一撃は驚くほど滑らかに木を割った。削り取られた木片がふわりと空気に舞い、工房に柔らかな香りが広がる。「ありがとう」と木が囁いたように感じた。
午後、翔太は作業の流れを整えながら、慎重に木を曲げるための準備を始めた。蒸し箱から立ち昇る湯気が工房に満ち、冬の空気を柔らかくする。木を均等に蒸して適度な柔軟さを与えるこの工程は、椅子作りの中でも緊張を要する部分だ。
佳奈が手伝いながら尋ねた。「曲げ加工って、やっぱり怖いもの?」
「怖いよ。」翔太は正直に答えた。「ほんの少しの温度差で失敗する。割れてしまったら……もう取り返しがつかないから。」
佳奈は真剣に頷いた。「でも、翔太くんなら大丈夫。昨日の線、本当に綺麗だった。」
その励ましは、蒸気の中で柔らかく胸に届いた。
木材を曲げ型に固定しながら、翔太は息を整える。時間との勝負だった。蒸した木は熱が冷める前に曲げなければならない。力を入れすぎれば折れ、弱ければ形を保てない。その加減は、経験でも数字でもなく、“木を触ってきた時間”だけが答えを知っている。
「……よし。」
ゆっくりと、慎重に。木は抵抗しながらも、少しずつ曲げ型の曲線に沿っていった。佳奈が隣で息を呑む音がする。最後のピンを打ち込んだとき、翔太はようやく大きく息を吐いた。
「できた……。」
「すごいよ、翔太くん!」
佳奈の声が工房を満たす。翔太は笑い、額の汗を拭った。まだまだ工程は続くが、この瞬間は確かに一歩前へ進んだ証だった。
夕方、曲げ加工を終えた部材を並べて眺めていると、工房全体が少し違って見えた。一本の線から始まった椅子が、ようやく“形の予感”を持ち始めたのだ。
佳奈がそっと隣に立つ。「翔太くんさ……今日の作業、ちょっと誇らしそうだった。」
「そう見えた?」
「うん。すごくいい顔してた。」
翔太は照れながらも、その言葉を否定しなかった。確かに、今日の自分はいつもより強く未来を感じていた。
「……この椅子が完成したら、またひとつ景色が変わる気がする。」
佳奈はそっと微笑んだ。「その景色、私も一緒に見たい。」
作業灯の下で、部材の影が優しく揺れている。静かに始まった制作は、翔太の新しい挑戦であり、同時に二人の未来の輪郭をゆっくりと描き出していた。
(36話へつづく)
(文・七味)